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1.はじめに
 以前、テレビのニュースで、和歌山県海南市の紀州雛イベントが取り上げられていたことがあり、この漆あれこれレポートの題材として紀州雛を取りあげてみたいと思っていました。
 2011年の12月中旬、紀州雛づくりの職人さんに連絡したところ、12月28日の仕事納めの日に紀州雛の取材の了解がとれました。また、紀州雛の工房からほど近いお寺に、漆の蒔絵の天井画があるということで、こちらも合わせて12月28日に取材をお願いしました。
 今回は、紀州雛、それから根来塗などの紀州漆器についてレポートします。

ころころと可愛らしい紀州雛たち
 
2.紀州漆器
 和歌山での漆は、室町時代に、近江(滋賀県)から紀州桧を求めて住み着いた木地師たちが、漆の下地ではなく柿渋に木炭の粉を混ぜた下地を施した、漆塗り木椀となる渋地椀(しぶじわん)を作りはじめたのが始まりのようです。その後、岩出市の根来寺で制作・使用していた根来塗(ねごろぬり)に関わる僧侶たちが、戦国時代の豊臣秀吉の根来寺攻めによって、海南市の黒江や石川県の輪島などへ難を逃れ、本来の根来塗が途絶えたかわりに、新たに住み着いた海南市黒江を中心に、渋地椀と根来塗が融合発展したのが、紀州漆器ということです。
 漆に関する和歌山県郷土伝統工芸品としては、次の3品目があります。
・紀州漆器:
 経済産業大臣指定工芸品(和歌山市、海南市、海草郡紀美野町、昭和53年指定)
・紀州雛:和歌山県知事指定工芸品(海南市、平成16年指定)
・根来寺根来塗:和歌山県知事指定工芸品(岩出市、平成19年指定)
 紀州漆器は、紀州漆器協同組合が、うるわし館(紀州漆器伝統産業会館)を建設して展示・販売・普及を推進しています。紀州漆器の特色は大きく2つあります。
 一つは、木地、下塗り、中塗り、上塗り、加飾の各工程で、専門の職人さんたちが従事し、いわゆる完全分業制になっていること。加飾は、幕末や明治に入って沈金や蒔絵の技法を導入し、華やかになりました。
 もう一つは、昭和30年代以降、新しい産業・工業技術を積極的に取り入れたこと。例えば、木地をプラスチックに、漆を合成漆に、刷毛塗りをエアスプレーの吹き付けに、蒔絵をシルクスクリーン印刷に。。。などなど、各工程で自動機械化を進めたことです。
 
3.根来塗
 12月28日の早朝、晴天の京都を出発して、岩出市の根来寺に到着しました。2009年10月3日から12月3日まで、東京の大倉集古館で開催された「根来」展を見て以来、発祥の地を見ておきたいと思っていたので、海南市に行く途中で寄ることにしました。
 根来塗は、中世の根来寺の僧侶たちが、自分たちの什器(日用品)を手作りしていた漆器のことをいいます。黒漆の中塗に、朱漆で仕上げますが、下地や塗り研ぎ技術が未熟で凹凸の多い塗り面となり、使い込むうちに、ところどころ朱漆がすれて剥げ、中塗の黒漆が見える漆器です。現在の根来塗は意図的に中塗の黒漆を研ぎ出して、生産しています。
 まず、根来寺に隣接する岩出市民俗資料館を訪ねました。根来寺縁起の資料展示や、根来塗の体験教室がありますが、体験教室はお休みでした。ざっと展示室を見廻ると、秀吉が攻め入る前に作られた根来塗は、お椀のかけら等しか展示されていませんでした。安土・桃山時代や江戸時代初期から中期にかけて、朱漆が剥げて中塗りの黒漆が見え隠れする使い込みが、素朴な味わいという魅力で大人気になったため、ほとんど残らず根来寺から流出したようです。
 展示室を出ると、向いに体験教室の作業部屋がありました。和風を意識した瓦の軒が付けられたガラス戸越しに中を覗くことができました。伝統工芸技術の伝承と普及には、一般の人々の興味や好奇心が必要で、裏方のスタッフさんたちの大変さが伝わってきました。根来寺根来塗が、最近になって和歌山県知事指定工芸品となったことからも、中世で途絶えた根来塗を再興していく活動の本拠地なんだなあと思うと、感慨深かったです。

岩出市民俗資料館 根来丸盆 出土した根来椀のかけら
 
 資料館を出て、根来寺の大塔の方へ歩きはじめました。大塔は、室町時代後期に建立されましたが、資材収集から完成までに67年もかかったようです。大塔を見ての率直な感想は、まるでおまんじゅうみたいで、ブータンに行った時に見た仏塔に似ていると思いました。
 大塔から少し離れたところに、名勝浄土池にせり出した聖天堂があり、朱塗の壇(修法壇・しゅほうだん)が置かれていて、これが根来寺に唯一残る根来塗でした。全部流出していたと思っていたので、根来塗発祥の地で、本来の根来塗が見られて良かったです。

根来寺大塔 根来寺聖天堂の修法壇
 
4.うるわし館と池庄漆器店と浄國寺
 海南市黒江に着くと、まずうるわし館(紀州漆器伝統産業会館)に寄って、紀州漆器にふれてみました。館内で放映している紀州漆器の歴史や紹介映像で見た職人さん達の仕事ぶりなどは見応えがありました。ただ、制作過程を現代化、機械化した紀州漆器については出来上がった展示品からは、根気のいる手仕事の迫力が感じ取りにくく、その独自の特色を見いだすのが難しいなと感じました。

うるわし館の特大紀州雛 漆クロメ(精製)の桶

 うるわし館を出て、近くの池庄漆器店に出向きました。最初にこのお店の方に紀州雛職人さんの連絡先を教えて頂いたこともあり、立ち寄ってみました。お店は、国指定登録有形文化財の旧家で、築220年の歴史があり趣のあるものでした。問屋も兼ねていて、川端通りの倉庫の方からお邪魔してしまったのですが、元気の良いおばあちゃんがいて、倉庫から奥につながるお店に案内してくださいました。
 お店では5代目ご主人の池原弘貴さんが対応してくれました。店先の土間だけでなく、家の中にも商品を陳列していました。何気なくご主人と話していると、漆器はあまり売れず商売が難しいことや、鹿革の表面に型紙を使って漆で模様を付けた、甲州印傳(印伝・いんでん)がよく売れていて、それに力を入れていること、などを語ってくれました。
 せっかくだったので、数ヶ月前に小銭入れのガマ口を無くしてしまったこともあり、一般には卸していない特注柄の染めの上に、漆のドットを付けたガマ口印傳と、漆の模様がきれいな印鑑入れ印傳を購入しました。


池庄漆器店 購入した印傳のガマ口と印鑑入れ
 
 漆関係の家が並ぶ町中に、浄國寺があります。漆工芸家の橋爪靖雄さんが、このお寺の本堂に、蒔絵の天井画を制作しているということで、お寺の方に連絡を入れておいて、実際に見に行きました。滞在時間があまりとれず、お寺の方に無理を言って、一目、見せて頂きました。本堂の中央を挟んで、左右に蒔絵の天井画を入れる予定で、現在はまだ向かって右側しか出来ていませんでしたが、花鳥風月の緻密な加飾が施されていて、完成がとても楽しみになりました。
 
浄國寺 蒔絵の天井画
 
5.紀州雛
 14時過ぎに、うるわし館の近所にある紀州雛職人さんの家、池島史郎さんを訪ねました。池島さんは、紀州雛づくりの3代目で、 2011年現在、家業を継いで26年の55歳、初代が母方の祖父、2代目が母になる方です。祖父の寺下幸司朗さんが紀州雛を創作したことから、屋号が「宗家・寺下」になっていました。
 祖父の寺下さんは、曲げ物の木地師4代目でしたが、木地師の家業を継がず、繊維業の仕事をしていました。昭和初期頃の海南市は、紀州漆器のお土産ものは日用使いのものばかりでした。それで、和歌山に来た人を喜ばせたくて、昭和7年(1932年)、当時海南市にあった和歌山県漆器試験場の明石聖一さんと恊働で、紀州雛を創作したようです。池島さんのお話では、お土産ものの形態は、試行錯誤の上雛人形になったが、お雛さまなら大事にしてくれるかな、と思ったことが大きいとのことでした。
 祖父の寺下さんは、紀州雛の制作をすべて職人さんたちに外注して、いわばプロデューサーの立場にいました。その後、池島さんの母は、祖父の手伝いをしながら漆職人さんのところで絵付けの技術を修得し、池島さんが継ぐ前の10年間、2代目になり、また、紀州雛の上塗りや絵付けを行っていました。池島さんは、子供時代から母の手仕事を見たり手ほどきを受けたりして、独学といってもよい環境で、母と同じ紀州雛の絵付師になった、とのことでした。
 紀州雛は、祖父の寺下さんの代から、大きさや形状がいろいろ取りそろえられていて、番号で区別しています。番号の基本形は、十の位がサイズを、一の位が形状を表して、1番が丸型、2番が釣り鐘型、3番が盃型になります。また、番号の数字が若いものほど、初期に考案された形状になります。紀州雛づくりについては、作業工程の機械化が進む紀州漆器にあって、小さな雛人形であっても、天然の漆を使った伝統の手仕事を基本としています。


「紀州雛 宗家 寺下」の池島史郎さん 

 紀州雛の木地については、紆余曲折あったようです。祖父の代は、神奈川県の木地師さんから、カエデを使って、ロクロで挽いてもらっていました。その後、池島さんが継いで2~3年の間に、大きな材が手に入りにくくなり、ある時から、雛人形の頭と胴体を別個で挽いてくるようになりました。池島さん側で接着して欲しいということでしたが、接着作業や漆を塗るにあたっての下地処理や、乾燥による変形の処置などが大変で、とうとう発注を断ることになったそうです。
 和歌山は、植林はあるが伐採する木地師さんが少なく、クスノキを使っている職人さんにあたってみましたが、木地に「割れ」が入る数量が多くて歩留まりが悪いため、使うのを断念したとのことでした。
 ほうぼう探して、佐賀県の木地師さんに、人形なら白木がよいだろうという配慮からミズキで挽いてもらっていました。ミズキが手に入らなかった年に、エゴノキで代用したら問題なく使えたそうです。その後、佐賀県の木地師さんが台風で工場が飛んでできなくなったため、今に至る約20年間は、大分の木地師さんに、エゴノキで挽いてもらっています。ただし、ここも昔は、ロープ等で樹皮部を痛めないように運搬していましたが、外材に押されて伐採量が減ったことと、林業に関わる方が高齢になったため、伐採後の運搬は、ロープよりもさらに手間がかからない「引きずり」をして、樹皮部を痛めるようになり、材の質が落ちてしまったようです。池島さんからは、将来的に、紀州雛の木地が手に入らなくなる可能性が示唆されました。
 紀州雛の下地と塗りは、もともと長手盆を刷毛で塗っていた職人さんが片手間で対応していましたが、病気でいったん廃業されました。しかし、その5~6年後に紀州雛だけなら、と専属の復帰で、およそ20年間、刷毛塗りの作業をしてくれたそうです。下地は、砥の粉とニカワと生漆を混ぜたハンダというものを使っているようです。男雛の青色漆の塗りは、顔料が多いため、漆が固く、塗るのが難しそうだなと思いました。この方は数年前に、再びの病気とご高齢で廃業されたそうです。今は、スプレー吹き付けの職人さんに、漆が吹き付けしやすく売れやすい丸型のみ対応してもらっています。その他の形状の紀州雛は、吹き付けしにくいため、廃業した塗り職人さんの在庫のみで、無くなり次第、廃番になるとのことでした。

エゴノキの丸形の木地  上塗漆を刷毛塗りした釣り鐘型

 紀州雛の絵付けは、大きいサイズは池島さんが対応し、No.1~No.40の小さいサイズは、祖父の代からの絵付け職人さんが対応していました。池島さんは、独学で絵付け技術を修得したため、小さい雛人形の顔を描くのが困難とのことでした。しかし、長年対応していただいていた絵付け職人さんは、数年前に、絵付け仕事ができなくなって廃業したため、小さいサイズの幾つかが廃盤になっていました。
 作業は、女雛の顔と男雛の顔と男雛の膝の白い部分を塗って1日ほど乾かし、三つ葉葵紋などはゴム印で漆をスタンプしていました。また池島さんは漆屋さんが調合した白色漆は、少し粉っぽいと感じていて、池島さんが自分で再調整しているため、少し茶色がかってしまっているとのことでした。
 紀州雛の図案は、意匠登録などしていて、祖父の代から基本は同じとのことです。このため、三つ葉葵紋を違う家紋にするなどの特注はやらないし、もしやったとしても、それは「紀州雛」の呼称は付けられない、とのことでした。
 廃業した絵付け職人さんが描いた顔と池島さんの描いた顔を見比べると、少ない線なのに表情がずいぶん違う印象を受けました。

漆をガラス板に出す 絵付け用の筆と筆洗い用の蛤の殻 文様用のスタンプの数々

漆風呂で絵付けした漆を乾かす。 左:廃業した絵付け職人さん作 右:池島さん作
   
 紀州雛づくりは、宗家の池島さんのところだけのいわゆる一子相伝のようで、後継者について聞いてみたところ、息子は違う仕事をさせたい、娘なら後を継いでもらってもいいが本人次第、とのコメントでした。これからの紀州雛はどうなるのでしょうか。
 
6.おわりに
 つい紀州雛の池島さんのところに長居してしまいました。壁に時計が掛かっていて、14時52分を指していて、まだ時間があるなと思い、ついつい話が長くなったのです。気がついて、壁時計をみたら、同じ時間を指していて、動いていませんでした。。。池島さん曰く、自分の好きなおやつを食べる時間に時計を止めている、とのことでした。あらら。。。

ずっとおやつの時間の時計